2018年に、「BRUTUS」(1/1・15日号/マガジンハウス)に寄せた原稿(改稿)です。
自己啓発に金を払うぐらいなら、ラケダイモン人に試される方が面白い。
ある者が、スパルタ王のアギス二世に言った。
「話すこと、話し合うことは、あらゆる事柄のうちでもっとも価値がある」
アギス二世は答えた。
「ならば、沈黙したお前には、いくらの価値もないわけだ」
栄華を極めた古代ギリシャ人たちの多くは〈文明〉を選ばなかったラケダイモンを嘲笑したが、ギリシャの誇るヘロドトス、プルタルコスは、ラケダイモンの気風に敬意を表してやまなかった。「王と将軍たちの名言集」(モラリア収録)は、プルタルコスがローマ皇帝に捧げた箴言集である。
紙であれ、口頭であれ、約束の言葉は虚しい。
単なる願望に過ぎない約束の言葉に実体を与えるのは、僕らの肉体と、その肉体をどのように動かすのかという意思の強度に懸かっている。
近代国家では、〈暴力の自由〉を司法や軍隊に預ける建前になっているので、ほとんどの場合、果たされなかった約束の代償は銭になる。銭の問題さえなければ、僕らは次から次に約束を口にし、躊躇うことなく、さっさと紙切れに署名するだろう。
19世紀のコルシカ島を舞台にしたメリメの一篇を教えてくれたのは、目の上に大きな傷を持つひとりの空手家で、かれの師匠は西原健吾の師匠でもあった。西原は、花形敬を失った安藤組で――棒を持たせた森田雅と並び――ステゴロの雄と評され、怖れをなした相手に談判の席で撃ち殺されてしまった。安藤組は、安藤の収監中に起こった西原の死をきっかけに、解散に向かったともいわれる。
「マテオ・ファルコネ」は、男の名前だ。
小柄ながら頑丈な、黒曜石のような黒い縮れ毛の、鉤っ鼻の、唇の薄い、大きな鋭い目をした、長靴の折返しの色の顔をしている。友人としてはありがたいが、敵に回せば危険極まる者だと囁かれていた。フォルチュナートはまだ10歳の少年だったが、その気性は父に似るものがあった。
ある日、マテオと妻は出かけ、フォルチュナートが留守を任された。そこに、撃たれて太腿を引きずった、お尋ね者が現れる。
「あんたは、マテオ・ファルコネの息子かい?」
「そうだよ」
少年は、かれを干し草のなかに隠してやることになった。
すると今度は、お尋ね者を追う軍人がやってきた。
「マテオ・ファルコネ」で描かれるのは、銭に転んで約束を守らなかった者に与えられてしかるべき末路だが、瞠目すべきは、感情と倫理を結びつけるべきではない状況が、僕らの人生の肝心な場面において現れ、それがしばしば偶然に過ぎないことを見事に叙述した点にあると思う。
結局、フォルチュナートは誰との約束を破ったのか。
本当のところでは、お尋ね者との約束は関係ないのかもしれない。もし、マテオとフォルチュナートの間で約束が交わされていたとすれば、その約束には、言葉など求められていなかっただろう。
恋愛小説は、私情が倫理に優先することで成り立つ。
他方、ハードボイルド小説を支えるのは感情と倫理、それに肉体が同期する瞬間なので、主人公は原理的には死ぬほかない。約束を破らない者は、この世界では生きていけないからだ。ゆえに、ハードボイルド小説は徹頭徹尾、ハードボイルド〈風〉小説だと言うこともできる。
斯界の大物だった北方謙三は、いつの間にか、時代小説の書き手に変貌してしまった。その理由は「擬態」に示されている。
主人公の会社員、立原章司は突然、自分を取り巻く世界への違和感に気がつき、ボクシングを始める。しかし、ボクシングは小説を成立させる必然ではなく、これはラグビーでも裁縫でも構わない。社会への違和感は、誰しもが抱えている。
その状況を打開するための方図を会社での出世と考えるのか、政治活動へ没頭するか、休日の娯楽か、家庭を持つか捨てるか、SNSで虚構を演ずるか、物語に逃げ込むか。たくさんの選択肢から、立原は意思と肉体の合致、ある種の倫理と感情の一致を選んだ。
その時点で、いかにも劇画的な作品の結末は読者の予感を裏切らない。方向性はどうであれ、わずかな曇りもなく今すぐ闘おうとするなら、命は軽くなる。死にたくなければ、生まれてくるな。善き人は死んだ者だけだ。
今のところ、この社会でハードボイルドは成立しない。ゆえに北方は、三国志と水滸伝を手掛けるようになった(と思われる)が、遠からず、日本にもテロリストのための文藝が生まれるだろう。
約束を守る者に半歩近い死が待つとすれば、破る者を待つのは何事か。
裏切られたものが必ず制裁を加えるなら、約束を破る者にも同じように半歩早い死が待っている。となれば、はじめから約束などしない方がいい。約束さえしなければ、僕らはずっと自由だ。約束がなければ貸し借りも、裏切りもない。
しかし同時に、僕らはたいがい約束を交わすか、いずれ交わしたいと願って誰かとすれ違うのだから、なにひとつ約束しない奴は面白くない。そこで、互いに約束を破り、互いに裏切り続ける関係を選んだりもする。あるいは、約束が破られてこそ得られるかもしれないものに期待を寄せる。
世界的なヒットを得ている米国のテレビドラマ「ゲーム・オブ・スローンズ」の脚本・製作者、デイヴィッド・ベニオフの短篇集「99999」には、約束が破られた後に生まれる、悪くない景色が描かれる。
高校生のザブロッキは約束を破って、ミッドナイト・ブルーのキャデラックで街を飛び出し(美しい裸足の少女)、フランキーは嘘にまみれた魅力的な女性に捨てられ(ネヴァーシンク貯水池)、音楽ディレクターのタバシュニクと歌手のモリーは互いに承知の上で、最初から偽りの約束を交わす(ナインズ)が、それでも人生は続く。
ここに、フィリップ・マーロウの文句を加えれば、生き延びる理由は万全だ――醒めてなければ生きていけない、優しくなければ生きる意味がない。
騙しても、泣いても、笑っていても、悟った目つきで、この台詞を口にしておけば、その場は乗り切れる。それでも人生は続く。
考えるだけ時間の無駄なので、この原稿は頭に戻る。
ある男が、ひとりのラケダイモン人を秘教に入信させ、かれの行ないのうちでもっとも冒涜的な行為を告白させようと試みた。すると、ラケダイモン人は「神々が知っている」と言った。
そこで男が「お前は、どうしても言わねばならない」と続けると、ラケダイモン人は問い返した。
「おれは誰に言わねばならないのか。お前になのか、神々になのか」
「神々に言うのだ」
「それなら、お前は消え失せろ」
本文中の紹介は、各作品を参照の上、筆者が改変しているため、原文とは異なる表現があります。
●プルタルコス「モラリア3」(松本仁助・訳/京都大学学術出版会)
80篇近い随筆から構成される「モラリア」のうち、トラヤヌス帝に捧げた名言集、スパルタにまつわる男女の言行、ローマ人の警句が収録されている。本書に目を通せば、スパルタが単なるマチズモ社会ではなかったことが分かる。
●デイヴィッド・ベニオフ「99999」(田口俊樹・訳/新潮社)
ベニオフの名を知らしめたのは、紹介作品の前に発表された長篇小説「25時」で、スパイク・リー監督、エドワード・ノートン主演で映画化された。邦訳は、ほかに「卵をめぐる祖父の戦争」があり、いずれも田口俊樹が手掛けている。
北方ハードボイルドの未経験者には、紹介作品の前に「檻」ないしは「棒の哀しみ」を薦めたい。その上で「擬態」を開けば、前者に通っていたわずかなロマンチシズムが乾いてなくなり、作家が眼差しを転ずる瞬間を存分に味わってもらえるはずだ。
スペインを舞台に、バスク人とボヘミア人の情事を描いた表題作に加え、紹介作品を含む5つの短篇を収録している。なかでも、奴隷を買いに来たフランス人に同胞を売り飛ばす奴隷商人の悲劇「タマンゴ」は、短篇の手本のようなひとつ。