2009年に、「Number」(731号/文藝春秋)に寄せた原稿(改稿)です。
かつて、日韓と並ぶアジア野球界の強豪としてその名を轟かせた台湾は、昨年の北京五輪予選に続き、ワールド・ベースボール・クラシック(以下、WBC)でも――実質的なプロリーグさえ持たない――中国に敗北を喫した。
西武ライオンズの黄金時代を支えた郭泰源や、メジャーリーグで活躍する王建民など、多くの名選手を輩出してきた実績は、すでに過去の栄光なのか。台湾野球の当事者たちは、この事態をどのように語るのだろうか。
代表チームの監督、葉志仙はWBCを省みた。
「代表チームには、準決勝に進むだけの実力がありました。それを成し遂げられなかったのは、指揮官たる私の責任です。しかし、プロ球界の側にも反省すべき点はあるはず。たとえば、今回のWBCメンバーの選出過程では、半数の球団が選手の貸し出しを拒否したのです」
日常では大学野球部でも指揮をとるアマチュア球界の重鎮は、プロ球界に苦言を呈したのだった。
「高校リーグに30チーム、大学リーグには15チームもあるのに、プロの受け皿はわずか4チーム。これでは、若手選手の育成などできません。CPBL(中華職業棒球大連盟)は、プロ球団の数を増やすために全力を傾けるべきです。昨年まで、台湾の社会人リーグは2球団でした。ところが、今年からは3倍の6球団になります。どうして、プロ球団ではなく、アマチュアのチームが増えたのか。分かりますか?」
台北県内の球場で取材に応えた葉の背後では、中信、米迪亜という既に存在しないふたつのプロ球団のユニフォームを着た選手が練習している。求められるプロではなく、アマの社会人チームが増えてしまったのは、昨年、とある事件のため解散に追い込まれた2球団の所属選手の受け皿が、プロ球界にはなかったからだ。
球団消滅にともなう昨年末の特別ドラフトで救われたのは、12人の選手のみ。
残りを引き取る形で発足したのが、ここで練習している台北県棒球隊を含む新設の4球団である。プロ球界とアマ球界の相互補完作用の欠落――それこそが問題なのだと、葉は強調した。
一方、別の見方をする者もいる。
広島カープの日本一に貢献し、韓国プロでコーチ、タイの代表監督を経て、現在は興農ブルズで指導をする寺岡孝だ。
「やはり、アマチュアの監督がプロの指揮をとるのは問題でしょう。僕だって、選手を貸し出すのが心配になります。ただ、批判されるべきは葉さんではなく、かれを選任した(台湾)球界上層部の判断ではないですか」
寺岡は自身の豊富な海外経験から、台湾に対して、日本球界にも果たすべき役割があると語る。
「台湾野球、なかなかやりますよ。代表が勝てなかったのは、メンバーの選出が的確でなかったからです。現時点でも、各チームにひとり、ふたりは、即戦力として日本で通用する選手がいますからね(…)台湾野球が躓いている理由のひとつには、日本球界がアジア全体の底上げを真剣に考えていないという側面もあるでしょう。もっと積極的に指導者を派遣するなり、いろいろと方法はあるはずですがね」
寺岡の言う「この先に生まれる関係」だけではなく、じつは台湾野球の歴史は、その成立と発展において、日本球界と深く繋がっていた。
台湾野球史の第一歩は、1906年、台北建国中学が試合をおこなったことに始まる。屈辱的な日本統治下で生まれた野球だったが、1969年には金龍少棒隊がリトルリーグ世界一を飾るなど、アマチュア球界における黄金時代は長い。
1971年に国連を脱退し、政治的には〈世界の孤児〉に陥った台湾国民にとって、野球はおのれの存在意義を証明するナショナリスティックな熱狂をもって受け入れられたのだった。1996年までにリトルリーグでは16度も戴冠し、ロス五輪では銅メダルも手にした。そして念願のプロリーグ、最初の試合がおこなわれたのは1990年。
CPBLでは、この年を職棒元年と称している。
プロリーグの開始にあたり、台湾の審判たちに講習をおこなったのは、元NPB審判部・副部長の丸山博だった。リーグ発足時から審判をつとめ、CPBL賽務部・副主任として現場を取り仕切る周濃舜は、その繋がりを誇らしげに語った。
「丸山先生は、台湾球界の恩人です。先生が(独自に)採点なさっている国際試合の各国審判団の評価ノートで、近年、われわれの評価が高得点を保持し続けていることは、台湾野球の進化を示すひとつの指標にもなると思っています」
台湾のプロリーグは、好調なスタートを切った。
1993年に俊国と時報、96年には和信が加盟し、全部で7球団となった順風満帆の台湾野球を、一転、奈落の底に突き落としたのは、和信の加盟から4カ月後に起きた〈黒鷹事件〉である。
台湾では、限定的にスポーツ賭博が許可されているが、違法な野球賭博に絡んだ八百長試合の容疑で、時報のスター選手・廖敏雄が球界を永久追放、球団ぐるみで事件に関わった時報そのものが解散に追い込まれることになった。
そして翌年(1997)、5年前からプロリーグに加盟申請を続けていた声宝巨人を中心に、CPBLに対抗した新たなプロリーグの設立が発表される。そのTML(台湾職業棒球大連盟)の最高顧問は、同年に日本球界を引退したばかりの郭泰源だった。
「CPBLではなく、TMLに関わったのは、台湾での人間関係など色々な事情がありますが、一番は、日本のように2リーグ制で競争関係をつくった方が、球界発展のためになると思ったから。とはいえ、結果的にみれば、当時の台湾球界の状況で、2リーグ制を実現するのは時期尚早だったかもしれない」
五輪予選で辞任していなければ、WBCでも代表チームの監督を務めていたはずのスーパースター、郭にも、自身の理想を達成することはできなかったのである。
八百長事件の波紋が広がっていた当初こそ、CPBLから人気を奪うことに成功したTMLだったが、その対立関係から統一シリーズが実施されないなど問題が続き、結局、2003年には(TMLが)CPBLに吸収される結末を迎えた。こうして、台湾の2リーグ制時代はわずか6年で幕を閉じた。
しかし、ふたつのリーグで猖獗をきわめた八百長は収束せず、その後も毎年のように疑惑が取り沙汰された。昨年にはついに、米迪亜のオーナー、コーチほか10人近い選手が身柄を拘束され、ふたつの球団が消滅。代わりに、社会人チームが4つ増えた。
2009年、記念すべき職棒20年に残ったのは元年と同じ、わずか4球団である。
「八百長が亡くならないのは、選手たちの年棒が一向に上がらないからです」
球界関係者が、匿名を条件に口を開いた。
「(現在、CPBLの)登録選手は、160人。かれらの年棒は、月額平均で下は3万元(約10万円)、最高でも83万元(約266万円)です。もっとも多いのは、10万元台(約32万~61万円)の選手たち。プレイヤーの現役生活は短い。引退後を本気で心配するのも分かるでしょう」
八百長の発端をつくる選手は、ホワイト・グローブと呼ばれる。
汚れなきグローブ、自分の手は汚さないという意味が込められている。
かれらの多くはレギュラー選手ではないからだ。
「マフィアはたいてい、控えの選手に接近を試みます。過去には、60万元(約192万円)もの現金を試合前に手渡し、ふたりのレギュラー選手への仲介を依頼した例もありました」
先に記した、台湾のプロ野球選手たちの稼ぎにもう一度注目していただければ、この値段がどれだけ魅力的か、実感してもらえるだろう。
「八百長の工作に成功すると、残りの金はもちろん、ホワイト・グローブの懐に入ります。これが、1試合あたりの金額ですよ。控え選手は、実際の試合には出場しないため、罪悪感も少なく、八百長に協力してしまうのです」
金の話。
周濃舜(CPBL賽務部・副主任)の言葉が頭をよぎる。
「個々の技術水準には自信を持っていますが、絶対数が足りない。現在、台湾リーグでは13名の審判が現役ですが、異なる球場で同時に開催される1軍の2試合と、2軍の1試合に必要な人数は12名。休めるのは、ひとりだけです。われわれとしても、審判の育成が急務だとは感じているのですが……」
審判育成のための予算が足りないのかと尋ねたが、曖昧な表情で返された。CPBLに籍を置く周の立場を考えれば、正式なインタビューの場で、属する組織を批判することは憚られたのかもしれない。
では、選手の待遇を改善すれば、八百長を撲滅できるのか。
関係者は、続ける。
「残念ながら、そうとも言い切れません。(ホワイト・グローブとは別に、マフィアが使う)もうひとつのやり方は、選手の待遇とは関係ない」
ようするに、直接的な脅迫、恫喝だ。
「もちろん、卑怯な脅しに屈しなかった選手たちもいますが、かれらの勇気を他のすべての選手たちに求めるのは難しいでしょう。私は、違法賭博に関する量刑を厳罰化するよう、政府に協力を要請する必要があると感じています。台湾の懲役3年とアメリカの懲役25年では、やはり抑止力が違う」
興農ブルズ監督の徐生明は、ナイフで刺されても八百長を拒否した。
あるいは、銃を突きつけられても正当な試合をした選手もいるというが、たしかにその勇気はプレイヤーの義務を超えている。台湾野球は、想像以上の危機に瀕していた。
ところが、ただひとり、もっとも危機感を持つべきはずの人物は、もっとも無関心な態度で会長室にいた。CPBLの事実上の最高権力者、秘書長の李文彬は台湾野球低迷に関わる一切について、こちらが投げかけた質問すべてに対して、その責任を否定し続けたのである。
――WBC代表チームの編成で、半数の球団が選手の貸し出しを拒んだ原因をどのように考えるか。
「特定の球団が、選手の貸し出しを拒否したという事実はありません。代表メンバーは、葉監督とCPBL、球団サイドの友好的な話し合いによって決められました」
――中国戦の屈辱的敗北については?
「中国に劣るとは思いません。もし、われわれが日本に勝利したとしても、台湾野球が日本より優れていると思う人はいない」
――浄化できない八百長試合。
「野球賭博に絡んだ八百長は球界の問題ではなく、どちらかといえば、台湾社会の抱える問題です。そもそも、公正な試合をおこなうのは、プロの野球選手として最低限の義務でしょう」
――選手たちの年棒について、どう考えるか。
「たしかに、日本やアメリカと比べればすくない金額に思われるかもしれませんが、物価格差を考えれば妥当です」
約1時間半のインタビュー中、李は弁解に終始した。
かれがCPBLの秘書長に就任してから、およそ11年。その間、坂道を転がり落ちるように、台湾野球は低迷の一途をたどったにもかかわらず、だ。
資金不足、八百長の横行、そして無自覚なトップ。やはり先行きは暗いのか。
だが、それでもこの国の野球に期待する理由がある。
5月12日、澄清湖球場を訪れた。
2万人を収容可能なこのスタジアムに足を運んだのは、わずか1774人。
この日の先発投手、興農ブルズの正田樹は127球の完投勝利を挙げた。2002年のパ・リーグ新人王である。投げ合ったのは、元西武の張誌家だった。
「阪神から戦力外通告を受け、トライアウトでも声が掛からなかったときは、正直、焦りました」
正田は言う。
「僕は、台湾野球に救われたんです。野球を辞めるのは、勝ち負けではなく、自分の感覚と可能性を信じられなくなったとき。今も野球を続けられるのは、本当に幸せです」
プロ入り前、群馬県初の夏の甲子園優勝を果たした左腕は、メジャー以外の海外プロリーグに関心を持ったことはなかったという。
「台湾に来てから、野球に対する視野が広がりました。日本やアメリカだけでなく、世界のいろいろな場所にプロ野球があるということを、身にしみて感じています。今年1年、全力でプレーして、次のステップを目指したい」
もはや、台湾人だけが台湾野球を必要としているわけではないのだ。
台湾野球に未来はあるのか。
現場では、多くの打開策を聞いた。
危機感はおおむね共有されているにせよ、問題は山積している。
「台湾人は、しぶといですよ。もう少しだけ待っていて下さい」
郭泰源は、ニヤリと笑った。